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Creators' Heads

2010年3月31日

クリエイティブの遺伝子 第1回:VFXスーパーバイザー 古賀信明さん 其の一

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クリエイティブの遺伝子

VFXスーパーバイザー 古賀信明 さん

第1回

VFXスーパーバイザー

古賀信明 さん

Nobuaki Koga

1958年(昭和33年)福岡市生まれ
主な作品
映画:引き出しの中のラブレター(2009年)、西の魔女が死んだ(2008年)、砂時計(2008年)、魍魎の匣(2007年)、黄色い涙(2006年)、蟲師(2005年)、天使(2005年)、HINOKIO(2004年)、アヴァロン(2000年)、五条霊戦記(2000年)
TVCM:日本コカコーラ/ジョージア シリーズ、NTT東日本 ガッチャマン
その他:愛知万博展示映像 NEDO、世界最大の恐竜博2002、
2007年 大友克洋監督『蟲師』でシッチェス・カタロニア国際映画祭「最優秀視覚効果賞」、日本映画テレビ技術協会「映像技術奨励賞」を受賞
株式会社スペシャルエフエックス スタジオ

映画を中心に、アナログからデジタルまで、30年以上に渡り数々の特殊メイク、ダミーワーク、マットペイント、視覚効果などの特撮、VFXを手掛けてきた古賀信明さんにクリエイティブの歴史とその拘りを訊きました。

其の一:
はじめて手掛けた特殊造形は、40日間で50体の死体を作った「ビルマの竪琴」
その後、特殊メイクなら、自分で責任を持って一人でできると決意した

■ 映像の世界を目指したきっかけは?

ウルトラQですね。小学校2年の時です。丁度円谷プロがはじめて日本で特撮番組を開始したその放送を、リアルタイムで見てました。僕は、子供の頃からテレビは作られた物という認識を持っていたので、その作られた世界はなんて凄くて、楽しいんだろうって思っていたんです。で、その世界を作りたい、いつか僕も作り手になりたいと思っていました。

大学では写真の勉強をして、写真家になるのもいいかなとちょっと浮気をしていたんですけれども(笑)やはり、映像やイメージは、人の心を動かす力を持っていると、潜在的に思っていたんだと思います。自分の僅かな力で、人の心を動かすような仕事につけたら素晴らしいよな、という想いが一貫していたんじゃないかと思います。

■ その夢を成就させるきっかけは?

一番最初は、九州産業大学写真学科在学中に大岩教授(故人)から、東宝の機材課長さんを紹介して頂きまして、はじめて東宝撮影所に見学へ行ったんです。確か1979年くらいだったと思います。丁度、伺った隣の部屋で「影武者」(1980年)のリーレコ(整音)をやっていたことをよく覚えています。その時は、フロントプロジェクションという合成方法のシステムや、当時東宝が代理店もやってたパナビジョンという業界で有名なカメラとかを見せてもらいました。あの当時、映画は既に斜陽だったですけれども、やっぱり東宝撮影所は凄いな!と、感じました。それに、自分が憧れたゴジラですね。その怪獣映画のほとんどが、ここで作られたんだなあと思って、非常に感激したのを覚えています。

それからもう一つ、決定的に、自分の職業はこれだと決心させたのが、「2001年宇宙の旅」、そして「スター・ウォーズ」の映画でした。「2001年宇宙の旅」はリバイバルですが、ほぼ同時期にこの2本を見て、もう自分の職業はこれしかない!と決めたわけです。

■ 最初のお仕事は?

とにかく、はやく仕事をやりたくて、大学の卒業式を待たずに東京に飛び出して来たんです。当初、周りから撮影助手から入りなさいという助言を頂いて、僕もそれを望んでいたのですが、知識がないので映画の撮影助手にはすぐになれなかったんです。そこで、今は潰れてなくなってしまいましたが、88光映(ハチハチコウエイ)という小さな映画の機材屋さんに入りました。手取りは、社会保険を引かれると、月給、4万5千円。その僅かなお金で、なんとかやっていました。当時、現場の日当が1日15,000円から20,000円でしたから、そのギャップはかなりのものでした。でも、苦労は全く感じなかったですね。僕としては、機材屋さんでお金を頂きながら勉強ができるし、人脈も広げられるので、とてもありがたいなと思っていました。周りのいろんな刺激を楽しみながら、充実した貧乏生活を送っていました。

■ 特撮の仕事は、どのような経緯で始められたのですか?

88光映に入って1年半ほど経った頃、北海道に7ヶ月間、ドキュメンタリーの撮影助手として行かないかと声を掛けられたんです。それを期に88光映を円満退社して、フリーの撮影助手になりました。当時は、特撮の世界には、簡単に入れないだろうと思っていたんですが、ある日、日本兵の死体を50体ほど作れないか、という話が、今美術をしている「林田裕至」君のところへ来て、一緒にやろう!ということになったんです。それが、市川崑監督の「ビルマの竪琴」(1985年)という映画でした。その時は、東宝撮影所の照明機具置き場だった古い建物を空けて頂いて、約40日間で、50体の死体を作りました。その死体作りが、特殊造形、特殊メイクをはじめたきっかけです。

■ 特殊メイクは、どのようにして習得したのですか?

撮影助手の時、自分は助手には向かないと思っていました。やっていても、気が利かないんですよ。逆に自分ならこうするのになと思ってしまって、不満ばかり募っていたんです。それで、特殊メイクなら、自分で責任を背負ってでも、一人でもできる、と考えたわけです。
通常、どんな職業でも、はじめは助手で入って、現場の作法や、仕事のやり方を身につけて、はじめて一本立ちすると思いますが、僕の場合、無謀にも、特殊メイクではいきなり一本でやっていました。一つには、本の知識で十分だろうと、勝手に自分を過大評価していたこと。それに、教えを乞う師匠にあたる人が見当たらないということがありました。けれど、何よりも、誰も踏み込んでいなかった世界に行って、それによって人の感情を揺り動かしたい、という思いの方が強かったんです。もっと突き詰めて言えば、嘘をいかにリアルに作り出すか、という僕の中の永遠のテーマみたいなものを、すぐにでも追求したいと思ったわけです。

■ 特殊メイクの最初の作品は?

「ギニーピッグ」(1985年)という作品です。「ギニーピッグ2」(1985年)の時、これを見たチャーリーシーンが、これを本物の殺人ビデオだと思い込んで、FBIに捜査を依頼したという逸話もありました。このビデオは、実は、助監督が現場の様子を8mmフィルムで撮影して、それを映写したものをもう一回撮影して、凄くリアルっぽく仕上げて作ったものなんです。それを更に、監督である日野日出志さんの元へ送られてきた本物のフィルムだという設定を加えて、監督が本当の殺人映像のように見せる演出をしたんです。お客さんが本物だと思ったなら、僕にしてみれば、してやったりということですね。ただ僕は、スプラッターとかゾンビとか残虐表現は、全然好きではありません。それどころか大嫌いです。ただ純粋に、作り物の人間の皮膚がどうやったら本物のように見えるのか、どうやったらそれらしく見えるだろうかというのが、あのギニーピッグでトライしたテーマでした。

■ 過去の作品で苦労されたことがありましたか?

マットベイントをやっている時、「RAMPO」(1994年)という作品で、本当にありとあらゆることがうまくいかないことがありました。その時は、自分で新しいマットペイントの装置、スムースフレックスという装置を考案して作ったんです。特許庁にはソフトエッジ合成装置という名前で出願しています。これは、実写で撮ってきた映像を特殊なスクリーンに投影して、そのスクリーンと、今自分が描こうとしている画板をハーフミラーで合成し、ファインダー上で見ると、二つの画が合わさって見えるというものだったんです。これは、これまでのように現像のプロセスを経なくても、実写と絵が合成されてその場で見えるという画期的な装置でした。

もともとマットペイントというのは、実写と絵を合成して全て実写のように見せる合成テクニックの一つです。もっともシンプルな手法は、まず実写を撮影する時、未露光の何も映っていない部分を作って、その未露光部分に、後から撮影して絵の部分を合成します。その絵を撮影する時、実写の部分は2重写しにならないように覆って、1本のフィルムに仕上げるのが、生合成といわれるマットペイントの技法の一つです。これは、失敗すると、オリジナルを無くしてしまう危険性があって、非常に神経を使う技法でした。僕はそのリスクを、どうしても避けたかったわけです。

新しく考えた方法は本当に画期的で、作業効率が格段に上がるはずでした。
そして、いよいよ、実験もうまくいって、本番用に装置を組み直して使ったんです。ところが実際に本番でやると、合成結果が全く違うものが上がってしまいました。これには本当に参りました。その原因が、合成装置の新しく新調したハーフミラーにあるのか、レンズにあるのか、フィルムは新しいタイプのものを使っていたので、そこに問題があるのか、全く判らなかったんです。他にも、自分でキャメラの動きをコンピュータに記憶させて、何度でも同じ動きができるモーションコントロール装置を作っていました。僕は、その装置の組み立てと、モーションティーチング(動きのプログラム)、メンテナンス、そして問題の合成装置の開発と組み立てと、全て一人でやっていました。更にその上でマットペイントを描くということまでやったわけですから、ほとんど寝る時間はありませんでした。しかも、その結果が良ければいいんですが、全然駄目だったんです。一言でいうと、実写と絵の色合いが全く合わない。それで、本当に行き詰まってしまいました。結局、いろいろ調べたところ、新しいタイプのフィルムの発色のガンマカーブが違っていたことが原因だと判りました。けれども、そこにたどりつくまでが、本当に地獄だったですね。本当に、強烈な挫折感というものを味わいました。今までうまくくぐり抜けてきたのがラッキーだったというか、正に、こういった無謀なことを、締め切りのある仕事でやってはいけないという教訓を、身をもって体験したわけですよね。(笑)

其の二に続く

〜 次回予告 其の二 〜

やればやるほどアナログの限界が見えたところにデジタルの波が来た
クリエイティブへのこだわりは、映画の中のリアル