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Creators' Heads

2010年5月9日

クリエイティブの遺伝子 第2回:マットペインター 谷雅彦さん 其の一

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クリエイティブの遺伝子

マットペインター 谷雅彦 さん

第2回

マットペインター

谷雅彦 さん

Masahiko Tani

1971年(昭和46年)岡山県生まれ
主な作品
モンスタースーツ製作:東映TVシリーズ ダイレンジャー(1991年)
特撮美術:TVシリーズ 電光超人グリッドマン(1993年)、ガメラ 大怪獣空中決戦(1994年)、ガメラ2 レギオン襲来(1995年)
本編美術:ゴジラvsデストロイヤー(1995年)
マットペイント:学校の怪談2(1996年)、新世紀エヴァンゲリオン 劇場版(1997)、ラブ&ポップ(1998年)ファイナルファンタジー/ザ・スピリッツ・ウィズイン(2001年)、スターウォーズ エピソード2/クローンの攻撃(2002年)、パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち(2003年)、ハリー・ポッターと炎のゴブレット(2006年)、インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国(2008年)、ターミネーター 4(2009年)、スタートレック 11(2009年)、ザ・ラスト・エアベンダー(2010年)

ゴジラやガメラなどの特撮美術、本編美術や、マットペイントなど、日本で映画やテレビの仕事を経て、2000年渡米。現在、サンフランシスコのILMスタジオ(Industrial Light & Magic/Digital Matte Paint)で、マットペインターとして活躍される谷雅彦さんにクリエイティブへのこだわりを訊きました。

其の一:
仕事にするなら、好きなことをやらないと続かないと思っていた。
特撮美術で参加した映画の現場で、何をやりたいんだ?と聞かれ、絵を描こうと決意した。

■ はじめて衝撃を受けた映像は?

衝撃を受けた映像は、たくさんあり過ぎてきりがないのですが、特に小学3、4年の頃、布団の隙間から覗くように見た「サスペリア」(1976年)が忘れられません。ダリオ・アルジェント監督の恐怖映画です。劇場ではなくテレビでした。最初はただ怖いもの見たさ、恐怖感を疑似体験してみたいという思いですね。それが、客観的に見れるようになったのは、多分中学や高校になってからだと思います。以前感じた恐怖心が本物かどうか、もう一度見た時、どう違って感じるのかを確認するために、何度も見直したんです。そしてあらためて、その感情が、演出によって感じるものだと気付きました。例えば、オープニング、主人公の女性が一人夜、飛行場に着いて、そこからタクシーに乗ってバレーの寄宿舎に向かうのですが、彼女が空港の外にでる自動ドアのアップ、ドアが開くと凄い豪雨の別世界なんです。そこからもう何かストーリーが始まる予感がします。またそこで、もの凄い雨を映しているのですが、間に、豪雨が流れ込む排水溝のアップを2カットも使っているんです。映画特有の表現というか、そうした何気ないショットからも、映画という時間の流れを強く感じた映画でした。

復刻版でみた「メトロポリス」(1927年/1984年、ジュルジオモロダー版)も、印象に残る映画です。オープニングで、様々な機械が動くオーバーラップから始まって、巨大セットのメトロポリスの中で、わざとらしく演出された労働者がリズミカルに働く姿を撮った映像は、僕の中で衝撃を受けた一つです。今でも83年前のものとは思えないパワーを感じます。「遊星からの物体X」(1982年)や「エクソシスト」(1973年)、サムライミの「死霊のはらわた」(1981年)など、高校の友人と映画を鑑賞する時間を作って、夜中ぶっ通しで映画ばかり見ていたことがありました。そういった時に、ホラー映画は、一番眠らせない映画ではありましたよね。

その頃は理屈として判ってはいないのですが、その恐怖感を沸き起こさせる印象的な画作りというものがあることに気付いたんだと思います。ライティング、カメラワーク、モンタージュの仕組みが上手く効果的に使われていることを意識して、そこから映画というものに興味を持つようになりました。

■ 実際に映像を仕事にされたきっかけは何ですか?

これがきっかけ、というものは特に無いように思います。高校生の時、トーマス・J・スミスが書いたILMの分厚い書籍を書店で見つけて、父親に買ってもらったんです。そして、今まで見て来たスターウォーズなどのSF映画の特撮はこうして作られているのだということをこの本で初めて知りました。その中で今までセットと思っていたいくつかのショットが絵だと知ったときは、感動と衝撃を受けました。そこでマットペイントの存在を初めて知りました。でも、まだ漠然とした感じで、憧れというか、こういう仕事もあるんだくらいに思っていました。

僕は根本的に、仕事にするなら、面白いことをやりつつ、自分も楽しめてなおかつ、生活するための給与がもらえるものがいいと考えていました。とにかく、好きなことをやらないと多分続かない、就いた職が自分にとって面白くなければ、ずっと続けられないと思っていました。高校の時は、大学進学という道もありましたが、僕には大学に進学して何をするか明確に見えて来なかったんです。それで、映画を作りたい、映画制作というものに参加したいと漠然と思うようになっていました。自分にとって飽きないもの、それは映画だろうと、高校の3年間でじっくり考えました。そして、その映画の道に進むには、その映画を制作するための技術やノウハウを教えてくれる所に早く行けばいい、そうすれば楽しいだろうし、同じ意思を持った仲間も揃うだろうと、専門学校へ行くことを決めました。

最終的に選んだのは「東京映像芸術学院」の特撮クリエイター科です。当時埼玉県熊谷にあった、3年の全寮制専門学校でした。その学校は、宇宙船というマニアックな専門誌の折り込みチラシでみつけました。ほかにもいくつか候補はあったのですが、パンフレットが一番魅力的だったことで選んだと思います。この学校に行き始めてから、自然に映画の現場に行ったり、CMのアルバイトをしたり、実践的に映像の仕事をするようになっていきました。

■ どんな映像の仕事をされましたか?

専門学校時代は、特撮美術、特殊造形、大道具といった、美術全般のアルバイトをしました。例えば、東映のヒーローもののテレビ番組に登場する怪人のボディースーツの一部や、怪獣とヒーローが戦う舞台のセット制作などです。初めて関わった大きな作品は、東宝の「ゴジラ VS キングギドラ」(1992年)でした。撮影部隊は、本編班と、特撮班の、2つの班に分かれていて、僕はその特撮班の美術を担当していた会社のバイトで、主に石膏ビルを作りました。石膏ビルというのは、怪獣が破壊するビルです。壊れやすいように、石膏の板を何枚か作って、その中からパーツを切り出して、箱型のビルを作っていきます。その時は、東京都庁と、副都庁の一部を担当しました。

学校を卒業した後は、円谷プロと契約し「電光超人グリッドマン」(1993年)というテレビシリーズに、石膏ビルの制作スタッフとして参加しました。10ヶ月くらい、3,4人のスタッフで、毎週5,6棟くらいの石膏ビルを作り続けました。着ているペンキまみれのつなぎに、石膏がこびりついて、乾燥したら粉になって舞うといった凄く汚れる仕事です。今とは全く違いますね(笑)ただ、グリッドマンのあとも、元々やりたいと思っていたマットペイントの仕事は、ずっと出来ずにいました。

■ マットペイントを志したきっかけは何ですか?

学生の時には、マットペイントをやろうと決めていました。専門学校では、授業として映画の自主制作を行うので、簡単な現場の疑似体験ができました。その時、照明や、助監督など、美術以外にいろいろなパートを受け持ちます。その中で、美術の背景として、絵を描くことがあったんです。昔から絵は好きでしたが、これは本当に時間を忘れるまで没頭して、なんて楽しい仕事なんだと思ったことがきっかけです。よし、これでいこう!というのは、もうその頃に決めていましたね。しかし、当時の日本でマットペイントを専門にやっている会社は少なく、マットペイントができる環境に入れる機会を見つけることがなかなかできませんでした。

学校を卒業した後、特撮美術の現場で働いていたのですが、そのうち、何故定職につかないのか、という身内からのプレッシャーが厳しくなってきました。映画の仕事は、基本的に作品契約で働くフリーランスです。一度作品に参加すれば、そうクビにはなることはありませんが、それでも作品が終わってしまえば、収入は切れてしまう不安定な職業です。そこで、一度、普通の就職活動をしたことがあるんです。映像業界とは全く関係ない、大日本印刷やイーグルなどといった会社です。でもその本意は、コンピュータを習得することでした。当時、100万円くらいするようなコンピュータは、高すぎて自分では買えませんでした。だから、コンピュータを無料で使わせてもらえる会社に入って、覚えたら辞めちゃおうというつもりでした(笑)。ですが面接では、映像業界の仕事の方が楽しいのに何故うちに来るのですか?という話になって、結局採用されることはありませんでした。

■ では、どのようにマットペイントの仕事を見つけることができたのでしょう?

特撮美術や特殊造形の仕事をしていた時、新しく平成のガメラを映画化する話が出て、破壊用の石膏ビルを作れる経験者を探していると、声を掛けてもらえたんです。そこで普通の就職は諦め、「ガメラ 大怪獣空中決戦」(1994年)の特撮美術に参加しました。

その現場で出会ったのが、特撮美術デザイナーをされていた三池敏夫さんでした。ある時、何気ない会話の中で、ふいに「谷は、何をやりたいんだ?」と声を掛けてもらったんです。僕は、マットペイントをやりたいと、思っていることを話しました。そして三池さんは、僕が本気で考えているなら、人を紹介すると言ってくれたんです。それが今もILMで活躍されているマットペインターの上杉裕世さんでした。将にその一言が人生の転機となったんです。

それまでの仕事の中で、自分がマットペイントをやりたい!やりたい!と言える雰囲気や機会に出会うことがありませんでした。また、先輩で仕事の指示を出す以外に、そういった下からの欲求を吸い上げてくれるような方もいませんでした。だから、そんな話をしてもらえたこと自体、僕の中で、もの凄く大きいことでした。あの三池さんの一声がなかったら、今、この仕事はしていなかったかもしれませんね。

それで、ガメラの仕事を終えた後、「西遊記」のテレビシリーズの仕事のお誘いを頂いたんですが、あえてお断りしました。仕事をする替わりに、自分で時間を作って、絵を描くことに専念しようと決めたんです。その時、「マットペイントをしたいんです!」と言っても、何も見せれるものを持っていなかったんです。それでは、上杉さんに会いに行っても、話にならないじゃないですか。僕が、今どういったコンディションで絵が描けるのかを見せるために、営業用の絵が必要だと思ったんです。そこで、最低限見せられるものを、ここ数ヶ月で作ろうと決めて、短期集中的に絵を描きはじめました。その年は、半年ぐらい家にこもりっきりで、仕事もせず、ひたすら絵を描きました。

■ 絵はどのように学ばれたのですか?

基本的には、全て独学です。専門学校では映画理論のこととか、技術的な照明のこと、演出や脚本、特殊造形の扱い方を学びましたが、絵のクラスはありませんでした。絵は、本を見たり、ビデオを見たりして学びました。時には普通に油絵を描いてらっしゃる人のところへお邪魔しました。そして自分の描いた絵を見て頂き、どこが良くて悪いか評価を聞き、改善すべき部分とその技術を教えて頂いたりしました。

■ どんな絵を描かれたのですか?

その時は、マットペイントを描いた訳ではないんです。写真を模写したり、習作としての絵を描きました。選んだ画材は、油絵の具ではなくて、主に即乾性があるアクリルです。最初に描いたのは、イギリスの霧の公園でした。霧が深くたちこめた並木通りの写真を模写しました。マットペイントの場合、一番のお手本は写真なんです。この写真に近づければ、マットペイントとしての目的は達成できるわけじゃないですか。なので最初の頃は、写真のようにリアルな絵を描くということしか頭にありませんでした。どういうふうにリアルな絵が描けるか、マットペイントの書物なども一切ないので、筆の扱い方から、道具まで、自分で試行錯誤しました。自分の感覚で、画材を替えたり、エアブラシを使ったり、紙だけじゃなくて、アクリルボードに描いてみたり、固いものに描いてみたり、いろいろな物で描いてみました。

この最初のイギリスの絵は、一枚描くのに半年掛かりました。この絵は、絵を描くためにまとめた時間を作る前から、仕事の合間に描いていたのですが、なかなか上手くいかなかったんです。いざ時間をとった時には、正直、また半年掛けて絵を描かねばならないのかと憂鬱に思う部分もありました。でも、実際にやってみると、ある時、一週間でできたものがあったんです。その時の絵は良いと言えるものではありませんでしたが、あれっ?これはいけるんじゃないかと思ったんです。それで、じゃあ今度は3日で描いてみようと思ってやったら、3日で出来たんです。これが徐々に増えていって、最終的には一日一枚というペースで描けるようになりました。あとは、そこからリアルにもっていくにはどうしたらよいか、ということを徐々に試し始めて、2、3日で一枚というペースで描いていけるようになったんです。この、あっ、意外と出来るもんだなと判ったのが、自分の中で、大きな自信に繋がったし、発見でもありましたね。ほかには、車、雪の積もった冬の京都、ニューヨークマンハッタンの全景とか、、、今考えると自分でもよくやったなって思います(笑)

■ その描きためた絵を上杉さんに見て頂いたのですね?

実際に上杉さんに連絡をしたのは絵を描き始めてから一年半ぐらい経った後でした。絵を描いて半年、生活費に困り始めたので、東宝映像美術で東京ディズニーランドのエレクトリックパレードカーの製作をしたり、CMの美術や、映画「ひめゆりの塔」(1995年)や「ゴジラVSデストロイヤー」(1995年)の本編美術をしました。絵は、その合間にも描いて、仕事と絵を描く生活をしばらく両立させていました。そしてようやく、30枚ほどの絵を描き上げました。それまで、なかなか自分の絵のレベルに満足できなくて、満足ができるものを用意するまでそのくらいの時間がかかってしまったということです。

そして、自分の用意が全て整った時点で、三池さんに絵を見て頂き、上杉さんに見せる絵を数点に絞りました。その絞った絵は、全て写真に撮りました。本当は、実際の絵をILMまで持って行きたかったのですが、絵自体は、B3の大きさだったので、それを手持ちでサンフランシスコに持って行くのは大変でした。そこで、プロの方に写真に撮って頂いて、引き延ばして、アルバムに入れて用意しました。そこで初めて、上杉さんに連絡を取りました。1995年の11月だったと思います。年末に休暇を頂いて、上杉さんのところへ絵を持って行きました。三池さんがあらかじめ根回しをしてくださっていたので、話が早かったことを憶えています。

■ そこでILMに入られたのですか?

上杉さんには、この仕事をやりたいなら、まずはコンピュータを覚えなきゃいけないねと、上杉さんの友人で、日本でVFXのスーパーバイザーをされているスペシャルエフエックススタジオの古賀信明さんを紹介頂いたんです。日本に戻って、古賀さんに、上杉さんに見せた絵を見て頂きました。古賀さんは、コンピュータを使えなくても、こういうことをしているならうちに来て、ということになったんです。そして直ぐに古賀さんのスタジオで働くことになったんです。

古賀さんのスタジオには、自分がやりたい条件が完璧に揃っていました。この時はもう、願っていたマットペイントの仕事ができるだけでなく、コンピュータやソフトが使えて、しかも覚えられる。更にそれまでフリーだったのに、社員として働けると、将に夢のようでしたね。そしてスペシャルエフエックススタジオには、3年半ほどお世話になりました。映画やCMの仕事など、マットペイントだけでなく、コンピュータ、CGについて全てを教えて頂きました。

※古賀信明さんのインタビューも公開中です。合わせてご覧ください。

クリエイティブの遺伝子 第1回:VFXスーパーバイザー 古賀信明さん

其の二に続く

〜 次回予告 其の二 〜

そのショットを作るのは、今が、最初で最後。だから後悔しないようにやる
日本で培った経験や感性が、今役立っている。