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Creators' Heads

2010年6月6日

クリエイティブの遺伝子 第3回:CG・撮影 ディレクター 尾崎隆晴さん 其の一

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クリエイティブの遺伝子

CG・撮影 ディレクター 尾崎隆晴さん

第3回

CG・撮影 ディレクター

尾崎隆晴 さん

Takaharu Ozaki

1972年(昭和47年)北海道 函館生まれ
アニメーション制作会社、サテライト、マッドハウスを経て、現在 A-1 Pictures に所属。クリエイティブグループ デジタルルーム第2撮影ディレクター。
主な作品
映画:メトロポリス(CG 撮影)2001年、機動戦士Zガンダム三部作(CG)2005~2006年、HIGHLANDER ハイランダー ―ディレクターズカット版―(CG 撮影監督)2007年、宇宙ショーへようこそ(撮影監督)2010年
TV:キャプテンハーロック The endless odyssey(CGチーフデザイナー)2002年、テクノライズ(コンポジットディレクター)2003年、十兵衛ちゃん2(撮影監督)2004年、Beck(コンポジットディレクター)2005年、ソ・ラ・ノ・ヲ・ト(撮影監督)2009年、世紀末オカルト学院(撮影監督)2009年
その他:ネクロドラゴン(監督 キャラクターデザイン CG)[アニメエキスポ 2007年] [フランス ジャパンエキスポ 2008年]
株式会社 A-1 Pictures(エー・ワン・ピクチャーズ)

2010年6月劇場公開のアニメーション作品「宇宙ショーへようこそ」、TVアニメーション「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の撮影監督、アニメエキスポ出展作品「ネクロドラゴン」の監督・キャラクターデザイン・CG などを手掛ける、A-1 Pictures の CG・撮影 ディレクター 尾崎隆晴さんにクリエイティブへのこだわりを訊きました。

其の一:
人生の大半を占める仕事の時間を、好きな事に使いたくて保険の仕事を辞めた。
3DCGは、自分では粘土や彫刻をしている気分で「あ、これ面白い」と思った。

■ 現在、A-1 Pictures でどんな映像の仕事をされていますか?

A-1 Pictures は、映画やテレビのアニメーションの企画から制作までを行うアニメーションスタジオです。自分はそのデジタル部で、3DCGと撮影の、ディレクターをしています。この撮影とは、昔でいえば、線画台でセル画と背景を一コマずつフィルムで撮影していくといった仕事です。今、これは全てデジタル化されて、パソコン上で行います。具体的には、Photoshopなどでデジタル化した背景とキャラクターの絵を、After Effectsに取り込み、動きと効果をつけていくコンポジット作業です。最新作は、この6月、劇場公開されるアニメーション作品「宇宙ショーへようこそ」の撮影監督になります。

■ はじめて衝撃を受けた映像は?

「フランケンシュタイン」や「魔人ドラキュラ」といったホラー映画です。元々、幼い頃から怪獣や怪物、フランケンシュタインなどの怪奇的なキャラクターが大好きでした。そのモンスター好きが、中学時代にホラーブームを体験して、ホラー映画にはまった訳です。まだCGがない時代の、特殊メイクやオプチカルなフィルム処理が使われていた頃の映画です。もっぱら、地元の北海道の映画館で、2本立ての名画として見たり、当時丁度普及しはじめたビデオで見ました。アニメーションやSF映画も好きでしたが、映像的に夢中になったのは、ファンタスティックと言われる、いわゆるB級作品ですね。人生ドラマは、普通に体験できると思ってしまいますが、怪物が出たり、現実にはない空想の世界を映像で見ることは、普段体験できないことですから、衝撃も大きかったのだと思います。

絵は、子供の頃から凄く好きでした。美術の成績はオール5や10で、そこだけは絶対にキープしていました。中でも特に好きだったのは、造形、粘土です。粘土は、小学生くらいから触っていました。それが中学生になって、映画を見るようになってからは、そのモンスターのキャラクターを作ったりするようになりました。例えば、プラモデルでも、粘土やプラスチックを使って自分でキャラクターをゼロから作る、フルスクラッチモデルをやっていました。今で言えば、フィギュアの原型制作のようなものです。

ただし、若い頃は、その好きなホラーや造形を、将来の仕事として考えることはありませんでした。仕事として関わるには不安の方が大きく、自分の中では夢の世界になってしまって、自分にはできないとずっと思っていたんです。兄は専門学校へ行った後、グラフィックデザイナーの仕事に就きました。そんな手本もいたのですが、自分は専門学校などへは行かずに、映像や美術とは全く関係がない、札幌にある普通の文系の大学へ行きました。今思えば、将来を決める時間稼ぎだったかもしれません。その頃、映画はもっぱら観客として、映画好きな友人と劇場へ行ったり、ビデオを借りて見るような日々でした。

■ 最初はどんな仕事に就かれましたか?

大学卒業後、就職したのは、自動車の損害保険を販売する代理店でした。職場は札幌です。仕事内容は、半分は営業、半分は事務的な普通のサラリーマンでした。今の仕事とは全く関係ありません。車を購入した時に自動車保険をおすすめして、満期が来たら、そのお客さんのところへ行く。契約したら自動車保険の代理店手数料をもらう、という仕事をしていました。どんな仕事でもすぐに辞めることは嫌でしたので、3年以上は続けてやるという思いで働いていました。

けれども、実際にサラリーマンをしているうちに、「一生働く仕事って何だろう」ということを意識するようになったんです。自分が、その仕事をできる、できないではなくて、今後数十年間、どういった仕事をすべきかということです。人は、朝起きて、夕方くらいまで、一日の大半の時間、仕事をしています。もちろん生活費を稼ぐという部分もあります。しかし、この人生に於ける半分以上の時間を、何をして過ごすかということを考えた時、できるだけ自分の好きなことに使いたいと思うようになっていました。もし、好きなことを趣味でやるとすると、帰宅してからになり、時間は限定されてしまいます。サラリーマンであれば忙しくて、休日も満足に休めないこともあります。であれば、仕事の中で、好きなことをすればいいわけです。そこで自分が好きな事は何かと考えた時に、自分の得意な絵的なものを生かせる仕事をしたい、という結論に辿り着いたんです。そこで思い切って、会社を辞めました。会社に入ってから4年目の決断でした。

そこから美術や、グラフィックを生かせるような仕事を探しました。特にアニメーションや、映像の仕事を狙っていたわけではなく、何か絵を描ける仕事がないかと考えていました。若かったので、何とか自分でやってやるくらいの勢いで辞めたのですが、仕事は全く見つかりませんでした。まず仕事の数自体がほとんどありません。それに自分は大学や専門学校などで美術を学んだことや、働いた実績がなく、新人でもありませんでした。普通にあるべき履歴書の一行目がなかったので、そこで大半の就職活動はアウトです。そんな時は、とにかく自分の描いたホラーのキャラクターの絵や、静物画の手書きデッサンなどを見せて、形で証明するしかありません。しかし、就職先にはほとんど相手にされませんでした。

当時は、とにかく地域的な環境が大きな壁だと思っていました。映像や出版、放送業界は、やはり東京が中心になってしまいます。しかし、その東京で、こんな田舎の人間がいきなり就職できるとも思えませんでした。単純に持っている夢や、やりたいという熱意は語れても、現実的にクリエイティブなものを仕事とするのは、自分の中で、とても敷居が高いものだと思っていました。そんな中で、友人が北海道のゲーム会社に入って、少し身近さを感じたんです。あっ、入れるものなんだ、という感じです。

■ この業界に入ったきっかけは?

仕事を探している時に、一つ、何も無い自分に自信が持てる出来事がありました。それはあるコンクールでの事でした。今は無くなってしまったのですが、当時「東京国際ファンタスティック映画祭」が、一般からポスターデザインを公募していました。ホラー映画好きの自分にとって、この映画祭は、中学の時に第一回が開催されて以来、憧れの映画祭でもありました。良い機会だと思い、そのポスター用の絵を描いてコンクールに応募をしました。コンピューターはありませんでしたので、手書きで描いたものです。すると、なんと、その年のグランプリを頂き、実際に映画祭のポスターとして採用されたんです。今までの就職活動では誰にも相手にされなかったのに、ある日突然、全く知らない人間が、自分の絵1枚を評価してくれることもある。そのことが、自分にとってとても大きな自信になりました。わざわざごまを擂ったりしなくても、「うん」と言ってくれる人が世の中にはいるんです!(笑)好きな映画祭の一つに、自分の絵が評価されただけでなく、それをメインビジュアルとして使ってもらうことができました。あの時は、本当に嬉しかったですね。

東京国際ファンタスティック映画祭 98

尾崎隆晴さんの「東京国際ファンタスティック映画祭’ 98」ポスターコンクール グランプリ受賞作品

既に会社を辞めて半年が経っていました。そうした時に丁度、当時札幌にあったサテライトというアニメーションの会社が、ペイントのスタッフを募集しているのを知りました。アルバイトでもいい、何かいいきっかけにならないかなという思いで面接に行きました。経歴は何もないので、とにかく描いた絵を見て頂き、絵が好きな想いをアピールしました。結果、見事採用です。「東京国際ファンタスティック映画祭」でのポスターコンクールの受賞が役にたったのかもしれません。そして、ペイントのアルバイトとしてサテライトで働くことになりました。

■ サテライトではどんな経験を積まれたのですか?

1998年の当時、丁度ゲームやアニメーションは、デジタルに移行する最初の時期でした。ペイントは、既にリアルな筆で塗る作業ではなくて、手書きで描いた絵をスキャンして、デジタルデータにしたドット絵を塗るという、今と同じコンピュータを使った作業でした。使用したソフトは、今は無くなってしまいましたが、サテライトと当時の親会社であったB.U.G.が共同開発した日本のソフトでギガというものです。そのギガで、色を塗るアルバイトをしたのが僕の最初のアニメーションの仕事です。

そのペイントのアルバイトは僅か3ヶ月という短い期間のものでした。そのアルバイトの中で、3DCG を少しずつ知り始めて興味を持ったこともあり、自分の仕事が終わると、毎日、空いているマシンを借りて、3Dソフトを使わせてもらうようになりました。その時はアルバイトの身でありながら、休みもせずに、空いたマシンを探しては、ひたすら3DCGのソフトを触っていました。そして、アルバイトの3ヶ月が終了する頃、サテライトの部長から、興味があるなら、3DCGや撮影のスタッフとして働いてみないかと声を掛けて頂いたんです。是非やらせてくださいとお願いしました。その時、サテライトはメトロポリスという劇場作品のCGを一部請け負うことになっていました。それに丁度Softimageのライセンスが一つ空いていたことで、人を一人雇う予定があったこともよいタイミングになりました。部長からは、絵やデッサンをできる人にやらせたいと言って頂いたと思います。自分には学歴や経験がありませんが、描いた絵などをよく見てもらっていたことで気に入って頂けたのかもしれません。

■ 3DCGの仕事はどのように覚えられたのですか?

メトロポリス(2001年)が、3DCGの最初の仕事で、自分が映像の世界に本格的に入るきっかけになりました。しかもプロジェクトが長かったので、2年くらい缶詰の状態が続きました。そこで担当したのは、3DCGの背景をSoftimageで作るというものです。まずメトロポリスの作品コンセプトとして、未来都市の地上と地下、二つ世界観の違いがキーになっていました。地上世界は、ブルジョアの人たちが住む、人工的な社会。地下世界は、下層階級の人たちが生活する場所です。地下世界は、人間の生活感やスラム化した空間を描くために、手書きの背景を使いました。逆に地上世界は、無機質で冷たい感じを強調するため、直線を多用した3DCGで全部を作ってしまおうというのが美術のコンセプトです。自分はその地上都市の3DCGの背景を担当したわけです。

3DCGは、ほとんど独学で覚えました。知識もあまりなかったので、とにかく当時のCG雑誌をいろいろ買って、読破していきました。最初は、コンピューターにほとんど興味がなかったこともあり、用語を覚えるだけでも大変でした。そして、実際にコンピューターを使ってよい場があれば、仕事があろうがなかろうが、ソフトを使って練習し続けましたね。空いた時間に自分が作ったものは、人の顔です。とにかく人を作りたかったので、時間が許す限りキャラクター造形をしていました。最初に触った3DCGソフトは、Softimageです。自分から見てSoftimageは直感的に触れるソフトでした。当時のインターフェイスはシンプルで、凄く判りやすかったです。今のハイエンドな3Dソフトとは少し違って、直感的にパッと見て、簡単にモデル造形できるなと思いました。しかし、厄介だったのはwindowsNT以前のコマンドを使う3Dソフト環境です。Silicon Graphics の Indy(インディ)や、O2(オーツー)といったものです。それらのUNIXベースのコマンド操作を覚えるのは大変でした。けれども、今も昔も、自分が重要視しているのは、やはり結果の絵なので、技術的なことを覚えるのはもちろん面倒だったり、ややこしいところがありますが、負担はあまり感じませんでした。フィニッシュの絵が一番重要だと思っているので、その目的がはっきりしていれば、必要な技術は、おのずと吸収されていくと思います。

もともと絵や映画が好きだったので、技術的なこと以外は、特別に負担を感じませんでした。それに、小さい頃から粘土や彫刻、彫像を作るのが好きだったことが、この仕事に繋がって、役に立ったと思います。この面の裏はどうなっているか、という空間の把握は結構自信がありましたし、モデリングは将にそういった作業です。直接手で触れられない分、少しもどかしい気分もありますが、自分では粘土や彫刻をしている気分で、「あ、これ面白い」と思いましたね。それまで深く意識していませんでしたが、絵も好きだし、更に造形が好きなので、この3DCGの仕事は、将に自分がやりたかったものなんだと思いました。その時期は、不思議なことに、断片的に散りばめられた色々な伏線のようなものが、最後につながり、一つの形になって、今の仕事に繋がっていったように思えます。

■ 札幌から東京に来られたきっかけは?

メインスタッフは東京にいました。サテライトには東京スタジオがあって、それはマッドハウスのCG分室のすぐそばにありました。自分がプロジェクトに参加して、最初の1年くらいは札幌にいて、何度か出張で東京へ行くことがあったんです。札幌にいる時は、東京とのコミュニケーションも取りづらいですし、チェックするにしても、いちいち何日も掛かったりして、正直やりづらい面がありました。だから東京へ行くことはいつも楽しみでした。このメトロポリスのCGディレクターは、サテライトに所属していた前田庸生さんでした。その前田さんがサテライトの仕切と、同時にマッドハウスのCGの仕切をされていました。この前田さんにも、僕が東京へ凄く行きたがっていることが伝わったのだと思います。出張といったら、尾崎は嬉しそうにしているなと(笑)だから出張した時は、東京でやりたいなら何日かやってもいいぞと言ってもらえたんです。何故そこまで自由にできたのかというと、グラフィックデザイナーをしていた兄が東京にいて、気兼ねなく寝泊まり出来たからでした。通常なら旅費だけではなくホテル代も掛かりますので、仕事が終わったらすぐに帰らなければいけません。しかしそこを、少し延長して滞在できたのは、たまたま兄がいたお陰ですね。

そのうち、東京のスタッフの人たちから「思い切って、東京へ来たらいいじゃない」と言われるようになりました。そして心が揺れている自分に「やるなら一線じゃなきゃ、君もうだめだよ」「そんなもたもたしていていいの?」と周りの人たちから最後の一押しをもらいまして、「このままではいけない、僕もこの人たちと同じ土俵に立って、第一線で働きたい」と決意したんです。それからサテライトの社長と、お世話になったCGディレクターの前田さんと相談して、東京で働く許可を頂きました。

今思い返しても、あの時は本当にラッキーだったと思います。本来であれば、東京で一人雇えばいいものを、わざわざ、札幌にいるこの自分を選んで頂いたわけです。これは自分にとって本当に素晴らしい出逢いだったと思っています。前田さんと出逢えたことで、きっかけを掴み、うまく引っ張ってもらうことができました。ただ当時はもう夢中で、チャンスを頂けるならとにかくやりたい。これをきっかけに好きな仕事ができるなら第一線でやりたい、そう思っていました。

其の二に続く

〜 次回予告 其の二 〜

やった方が良いと思った事は、戸惑うことなく身につけた方がいい
チャンスは、タイミングを選べない。しかし準備がなければ、掴むことはできない。